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檀石槐が45歳で死ぬと

檀石槐が45歳で死ぬと、息子の和連が代わって立った。和連には父親ほどの素質や能力もなく、しかも貪欲淫乱で、裁きが不公平だったため、部下の半数はその命令を聞かなくなった。霊帝の末年、しばしば侵略を行い、北地郡を攻めたが、北地の庶民で弩に巧みな者がおり、和連はそこで射殺された。和連の子の鶱曼は幼かったので、兄の子の魁頭が代わって立った。魁頭が立ってしばらくして、鶱曼が成長すると、両者は国を争い、部下は離反してしまった。魁頭が死ぬと、弟の歩度根が代わって立った。檀石槐の死後は大人たちの位はみな世襲されることになったのである。
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鮮卑は、歩度根が指導者になってから、その部族の勢いがやや衰え、彼の次兄に当たる扶羅韓がまた別に数万の衆を擁して大人となった。建安年間に、曹操が幽州を平定すると、歩度根は軻比能らとともに護烏丸校尉の閻柔(えんじゅう)を通じて、朝廷に献上物を送った。のちに代郡の烏丸の能臣氐(のうしんてい)らは、漢の支配に叛き、扶羅韓に、その配下に入りたいと通知した。扶羅韓は一万余騎を従えて迎えに出た。桑乾まで来たとき、能臣氐らは話し合い、扶羅韓の配下は彼の命令に十分に服してないから、けっきょくはそこに身を落ち着けることはできないだろうということで、別に使者を送り、軻比能に連絡を取った。軻比能はすぐさま一万余騎を率いてやってくると、ともども会盟を行うことになった。軻比能はその会盟の席上で扶羅韓を殺し、扶羅韓の子の泄帰泥とその配下の者はすべて軻比能の指揮下に入った。軻比能は自分が泄帰泥の父親を殺していることから、泄帰泥には特別に目をかけた。歩度根は、こうしたことから軻比能を仇敵とみなすようになった。

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2009年07月04日 03:05に投稿されたエントリーのページです。

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